地域活性化を目指しNPO法人越後まほろば俱楽部は令和6年3月活動を開始しました。その活動エリアの一部に正養寺跡があります。
【正養寺位置】
春日山白龍山正養寺の創立
上杉家筆頭家老山吉孫次郎豊守の母が深く仏門に帰依し春日山林泉寺住持天室光育禅師に頼み出家得度し妙光尼と称し、お寺を建立したいと発願、謙信公に頼み春日山東南麓に正養寺を建立しました。時に1557年。
その後、1572年火災に遭い照陽寺と改め、上杉家会津、米沢転封に伴い米沢城下に移りましたが、照陽寺では上杉家による憲政公の供養は行われていません。藩による供養が行われるのは、死後130年後でした。
1578年、謙信公が急逝し跡目相続問題で「御館の乱」が勃発。謙信公の養父である上杉憲政公が仲裁の為に春日山に向かう途中「四ツ屋砦」(現在の春日小学校付近)で上杉三郎景虎公の息子道満丸ともども殺害され、数日後、正養寺(照陽寺)に於いて葬儀が秘かに営まれ境内に葬られました。
正養寺に今も残る五輪の塔
憲政公の従者(山吉家の家来)の墓?
私たち一行14名が訪れた際、住職はあいにくの不在でしたがお母堂様から案内して頂きました。照陽寺要覧によると、藩主上杉景勝公の御命令により憲政公の数々の遺品が照陽寺に寄進され、それより照陽寺開基上杉憲政公と称され、照陽寺が七軒町現在地に遷座されると同時に春日山時代の公のお墓は境内内に移転され鄭重な御供養が営まれました。(当照陽寺古文書)とあります。
上杉憲政公の墓前にて(米沢照陽寺)
上杉憲政公位牌(照陽寺蔵)
妙照寺(謙信公青壮年期の師:林泉寺第7世住職益翁宗謙禅師の隠居寺)同様、今回の墓参のきっかけを頂いた林泉寺元住職笹川元祥禅師に感謝申し上げます。
NPO法人越後まほろば俱楽部では現土地所有者のご理解、又、市文化行政課のご指導を仰ぎながら、6年後の謙信公生誕500年祭に向けて、市民や観光客の皆様にご案内が出来るように調査研究、五輪の塔の修復、整備を進めて参ります。
参考文献:「上杉謙信の崇敬と祭祀」著者 加澤昌人 照陽寺要覧 照陽寺32代伊藤吉定
志賀 茂(春日山麓住72歳)
加澤昌人と申します。偶然にこのブログを見つけ、ご連絡させていただきました。
私の著書を参考としていただき、ありがたく存じます。
林泉寺の笹川元祥様とは40年以上にわたる交流がありましたが、先頃遷化され、まだまだお聞きしたいこともありましたのに、誠に残念なことです。
また、地元にお住まいでお城を研究をされている永野栄樹様は、大学の後輩にあたります。
米沢の照陽寺住職様は、普段は東京の曹洞宗の研究所にお勤めで、法務や所用の時だけ米沢にお帰りになります。
米沢照陽寺は、会津を経由せず直接米沢に移ったようですが、お写真にある憲政公墓石をどのようにして越後から運んだのかはわからないと、先代住職様も仰せでした。
春日山の正養寺跡近くに「らんとう山」というところがありますが、これは「卵塔山」で、昔は墓地ではなかったかと思うのですが、いかがでしょうか。
卵塔墓=卵のような形のお墓からくる名前かなと思いました。
また、「火葬場」というところもありますが、これは、昔からのものなのか、近現代からのものなのか、ご教示いただければ幸いに存じます。
突然に申し訳ございません。どうぞよろしくお願いいたします。
加澤昌人様
ご連絡いただきありがとうございます。見つけて下さりました偶然に感謝します。
加澤先生の著書「上杉謙信の崇敬と祭祀」については生前の林泉寺笹川東堂様より教えて頂き、上越市立図書館に直ぐ駆けつけ拝見しましたが、寄贈品で貸し出し不可とのことで通販で取り寄せました。現在仲間のところに貸し出して活用させて頂いております。
地元在住の研究家永野栄樹様という方にもいつの日かお会いできるご縁がありますように祈っております。
墓石については倶楽部の仲間の話では越後から石工職人が出向いて製作したのではとのことです。(私もそう思います)
らんとう山については仰る通りかなと思います。「火葬場」については近くに住む倶楽部員の仲間に聞いてみます。
寒くなって参りました。お体ご自愛下さい。
春日山麓住 志賀 茂拝